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なぜかパリの空の下

国際関係の修士を取ろうと思い立ち、気が付いたらパリにいました。

遠藤周作「沈黙」- 弱き者はどう生きていけばいいのか

スコセッシ監督の新作を観る前に、遠藤周作の原作を読みました。

ぜひたくさんの人に読んでほしい。

50年前の作品ですが、投げかけられた問いは本質的で、故に非常に現代的です。

 

織り込まれたいくつものテーマの中でも「弱き者はどう生きればいいのか」という問いが特に胸に響きました。

 

小説では、どうしようもなく弱く、ずるいキチジローの姿を通してこのテーマは語られるのですが、

このキチジローが度々口にするのが、心が弱き者はどう信仰を持ったらいいのか(信仰をもちつづけることはかなうのか)、という言葉です。

 

個人的には、キチジローは決して心が弱いわけではない、と思うので、

 

「立場の弱き者は信念を持って生きていくことさえ許されないのか」

 

という、問いとして解釈しました。

 

信念とまで言わずとも、人は誰でも正しいと思うこと、間違っていると思うことを心に持っているものだと思います。価値観、といってもいいかもしれない。

 

自分自身が世の中のルールを作る側にいない時(弱き者であるとき)、自分の価値観をどうもちながら生きていくべきなのか

 

個人レベルでは自分自身の会社や社会、国とのかかわりに関する問いであり、今、勉強をしている国際関係の文脈の中では、いわゆる「弱き国」の人間はその価値観さえ持ち続けることはできないのか、そんな問いとしても読みました。

 

フランスで勉強をする中で

 

「ああ日本は戦争に負けたのだなあ」

 

と感じることが時々あります。

戦後70年以上もたって、何を言っているんだ、と自分でも思うのですが、

授業を通して、戦勝国の側からの世界のあり方に触れるとき、心からしみじみとそう思うのです。

 

ものの捉え方も、思考方法もこうも違うものか、と思うときに、世界のルールをつくる側にならなかった身としては、やはり彼らのルールの中で生きていく必要がある、そう痛感します。

 

この文脈で考えると、作品の中の「踏み絵を踏む」という行為は、「相手の社会のルールや価値観を受け入れる」という行為の象徴になります。

 

踏み絵を踏まなくてはいけない時(他者のルールや価値観の中で生きていかざるをえない時)、これまでの自分の信仰(信念や価値観)というものはどうもち続ければいいのか。

 

ほんとうは、私の感じるこの価値観の違いはささいな、小さな差に過ぎないのかもしれません。

ただ、80年代に生まれ、世界はより均一になり、繋がっていく、先進諸国の同世代とは、同じような価値観で生きていると思って生きてしまった身には、このそもそもの土台の、微妙な、でもおそらくとても根本的な違いは、えらく衝撃的で、

 

だからこそ、この遠藤周作の問いは、とても深く心に響きました。

 

問いの答えはよくわかりません。それに、この問いをどう解釈し、どういう答えをだすかは、読む人にとっても、読むタイミングによっても違ってくると思います。

 

最後に、この作品がより奥深いのは、弱き者は強き者でもある、という部分です。

主人公である宣教師ロドリゴは、強き者でありながら、弱き者でもあります。キチジローも、ロドリゴの心の弱さを映す鏡のような存在として書かれているのですが、同時に、キチジローはとても強い心の持ち主でもあります。

 

遠藤周作は、講演でキチジローは作家自身だ、と述べていますが、

すべての人がキチジローである、ということなのだと思います。

 

*講演は以下のリンクの「没後20年企画[講演]ある小説が出来上がるまでーー『沈黙』から『侍』へ」で読むことができます。

www.shinchosha.co.jp