なぜかパリの空の下

国際関係の修士を取ろうと思い立ち、気が付いたらパリにいました。

フランスと人種差別(1)- 「人種」というものはない

「人種」(race)というものはないんだそうです。

人間が作り上げた概念であり、生物学的に根拠のあるものではない、という意味においてなのですが、こちら(西欧のみ?フランスだけ?エリート層に限る?)では言葉自体がもはや「悪の権化」のように扱われてすらいる気がします。

ひるがえって日本では、比較的使われる言葉ですし、アメリカの選挙結果をみていても人種ごとの投票結果がでていて、興味深くみていたりするわけです。

 

よって、まさかそもそもの概念自体が「ありえない」だなんて考えてみたこともなかったのですが、こちらでは全く違う捉え方をしているようで、この認識の大きな差は、フランスに来て一番驚いたで賞にノミネートしたいくらいです。

(これって世の中的には常識?)

 

このことを痛感した出来事があります。

とあるクラスでアメリカ人学生が「東欧移民の経済的困窮の原因はracismではないか」と発言した際、クラスに漂った妙な空気と、イタリア人教授の猛烈な反論、を目の当たりにしたとき。

 

EUの「人の移動の自由」に関する授業で、8割の学生がヨーロッパ(西欧)出身、そこに数人のアメリカ人とわたしというクラス構成だったのですが、彼女の発言を受け、

 

教授は「racismという概念を使う人自体がracistだ」と言わんばかりの猛反撃。

 

クラスにも奇妙な雰囲気が漂い、 彼女は大困惑、私は何が何だかわからないけれど、その場の雰囲気にぎょっとしたのでした。

 

(後日、ルクセンブルク出身のクラスメートとその時の話題になったのですが、逆に彼女は教授と同じく、アメリカ人の子がraceという言葉を使ったことにぎょっとしたと言っていました。)

 

その後、こちらでは「race」の概念が意図的に排除されていることを知り、ようやく背景を理解。ただ、この問題は非常に複雑で深い、と日々思います。

 

というのも、現に差別はあるわけです。

 

アメリカの「差別を可視化し、積極的に関わって無くしていこう」というアプローチと、「差別のもととなっている概念自体をなくすことで、差別できなくしてしまおう、という」フランスのアプローチの違いなのですが、

現在のフランスではこの「差別という概念はないという考え」と「差別はある現実」との差が広がってきてしまっている感じがします。

 

(このフランス24の動画(英語)でも非常にわかりやすく説明がされています。)

 

《Population studies: France's 'ethnicity' taboo》

http://www.france24.com/en/20170112-france-population-statistics-demography-race-ethnicity-religion-racism-discrimination-data

 

ちなみに、どちらのアプローチがいいかは、本当に難しいなと思います。フランスのアプローチを批判するのは簡単ですが、日本の問題におきかえてみると、例えば、同和問題に関して、被差別部落の人たちを可視化して積極的に支援を行っていくのか、そもそもどこが被差別部落だったかをみんなが忘れてしまえば差別のしようがない(特にraceと違って見た目上は何もわからない)ので、何もしない、のどちらがいいのか、と考えると、後者の方が望ましい気もするのです。