移民の歴史、歴史は繰り返す。
先日我が家(屋根裏部屋)についてのブログを書いていた際、ふと、移民の歴史について知りたくなり、思い立ったが吉日、12区にあるその名も、移民歴史館、に行ってきました。
hitomi-at-paris.hatenablog.com
MUSÉE DE L'HISTOIRE DE L'IMMIGRATION
http://www.histoire-immigration.fr/
もともと国立アフリカ・オセアニア館(ケ・ブランリ美術館の前身)として使われていた建物が2007年移民歴史館として生まれ変わったもので、19世紀以降の移民の歴史を紹介しています。
いつ頃どのような人がやってきた、という事実だけでなく、移民たちが携えてきた文化を視覚的、そしてアートを通して紹介することで、「彼らを彼らの文化ごとのみこんできた」歴史と国のあり方をつづることに主眼がおかれています。それぞれの国からの移民が、スーツケースに何をいれて持ってきたか、という展示がなかなかに面白かったのですが、楽器だとかお茶入れセットだとか、それぞれの民族に欠かせないものを抱えてみなフランスを目指したのです。私も日舞の扇子やら、干支の置物やらを持ってきているので、昔も今も変わりません。
歴史は繰り返す
興味深かったことは、この国は、移民を受け入れては拒絶反応がでて、また移民を受け入れては拒絶反応がでて、ということを想像以上に何度も繰り返している、ということです。
昨今のアフリカ・中東からの移民が大きなニュースになり、EUの根幹を脅かす問題になっていますが、移民、そしてそこに伴う反移民感情は最近始まったものでもなんでもない、ということがよくわかります。
19世紀後半、第一の波は産業革命によって起こった労働力不足を担うためにやってきたヨーロッパ内からの若い男性の移民です。一時期までベルギー人が多かったようなのですが、この大量のベルギー人の流入は反ベルギー感情をもたらします。(ベルギー人の労働者がフランス人家族に拒まれている風の絵が展示されていました、ベルギー人がフランスで拒絶されるだなんて、移民の多様性がさらに広がっている今となれば信じられない気がしますよね。)
EU内の人の移動、という観点ではよく南→北(戦後のスペイン・イタリア等の南欧諸国からの移民の波)から東→西へ(旧ソ連崩壊後の東欧諸国からの移民の波)という枠組みが提示されますが、これもごく最近のことだということです。
ベルギー人と同じ時期にはポーランド人やユダヤ系ロシア人、20世紀以降はイタリア人、アルメニア人、スペイン人、ロシア人、ポルトガル人、再度のイタリア人、再度のスペイン人、ラテンアメリカ諸国、東南アジア諸国、トルコ人、アフリカ諸国、、、と続きます。
そしてそのたびに、もといた人々の中に反発が生まれる、ということが繰り返される。そして毎回、乗り越えてきている、という事実に、今回の移民問題もまた乗り越えていくんじゃないか、という楽観的な見方と、
果たしてそもそもこれまで乗り越えてきたといえるのか、という懐疑的な見方が入り混じります。
同時に、さらに興味深いのは、各民族の独自性を尊重する多文化主義をとるアメリカとは違い、フランスは各民族の独自性は排除し、「共和国理念」・「フランス語」・「ライシテ」の名の下に同化主義をとっている、という側面もあることです。この原則から考えると、その出自や文化の多様性に着眼をした移民歴史館は異色の存在なのかもしれません。
※フランスの「普遍主義的同化原理」とアメリカの「差異主義的共同原理」については、以下の本に詳しいです。これまでの人生をアジアについやしてきた身としては、フランスを理解する上で大変勉強になりました。書かれたのは2002年と少し古いですが、本質的な問題は変わっていないと思います。
ちなみに歴史館は、常設展にも関わらず、主に「受け入れる側」の人々でとてもにぎわっていました。同期間に、アニエスベーの現代アートコレクション展が企画されていたこともあるでしょうが、「世界の移民について」の解説に多くの人が熱心に耳を傾け、積極的に質問をする様子からは、フランス人たちの移民問題への大きな関心がうかがえました。
ただ、同時に、「なぜ移民せざるを得なかったか」という、もう一歩深い考察に至らないこと(もちろん経済的困窮や政治的迫害を逃れて、との記載はありながらも、ではなぜその状態に陥ったのかという部分が抜けているのです)にはやはり、どうしても、少し批判的な気持ちになってしまいます。
歴史館の建物は、国立アフリカ・オセアニア館になる前、もともとは1931年の国際植民地展覧会のために建てられたそうで、中央にある数フロアにわたる巨大な壁画には、いかに「フランス人がアフリカ・オセアニアの未開の人々を導いてあげたか」が壮大に描かれています。
「人々の多様性を認める」歴史館が、「偉大なフランスがその人々を野蛮とみなし、どう啓蒙してきたか」を誇示する建物にあるという皮肉に、そしてそれを皮肉だと感じないであろう大多数の来場者たちに、複雑な想いを抱えながら歴史館を後にしました。
パリのオープンカフェ。テラス席に逆風? 規制強化と増税。
パリといえば、歩道にはみだしたカフェでパリジェンヌたちがおしゃべりをしている、そんなにぎやかなイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。
実際にパリにきてみても、やはりカフェのある街並みはにぎやかで華やか。
加えて、パリ市民のテラス席への情熱は尋常でなく、
いくら寒くてもテラス席に座りたい。
カフェのおじさんも、どれだけ屋内がガラガラであろうと、「お、君、ラッキーだな、テラス席があと1席残っているよ!さあ座りな!」と有無をいわせずテラス席をあてがってくる。テラス席<屋内という考えは毛頭ない様子。
冬になるとそのままガラスやビニールシートの囲いができて、ヒーターであたためてまでテラス席は存続します。パリ市民のテラス愛おそるべし。
そして、翻って日本でも、国交省がにぎわい創出のために道路占有許可の特例制度をつくっていたり(2011年の都市再生特別措置法の一部改正)、それを受けて東京都でも「東京シャンゼリゼプロジェクト」が2014年から施行されていたり。その結果、一定の条件を満たせばオープンカフェが設置できるようになって、例えば港区の新虎通りなんかでお目見えしています。これらが、パリのにぎわいを念頭においていることは想像に難くありません。(なんていったって、ネーミングからして「シャンゼリゼ」ですしね)
ということで、世の流れは
目指せ、パリ!どんどん歩道にしみだして、にぎやかにしていこう!!
というふうに理解をしていました。
が、ところがどっこい、
当のパリでは、テラス席に対する規制強化と増税という、むしろ逆風がふいているようなのです。
構図としてはパリ市vs街中のカフェやレストラン。パリ市はテラス席がパリのイメージ向上に寄与していることは重々承知していて、そして市職員たちも日々テラス席は愛用しているでしょうから、撤廃しようなんてことはもちろん考えていない。
ただ、テラス席のしみだしっぷりが度を越しているという現状と、おいしい財源として味をしめているということのようです。
事の発端は、2011年のオープンテラスに関する条例の改正で、趣旨としては
・冬場出現する、見てくれの悪いビニールシートの囲いを禁止(近隣住民の騒音被害対策もあり、一部地域でしか許されていなかったガラスの囲い禁止を撤廃)
・快適な公共空間の創出のために現行の1.6mルールを徹底すること(0.6mのテラス席スペースと1.6mの歩行者スペースを確保することが必須)
・環境問題となっていた、これまた冬場のガスヒーターの利用禁止(電気ヒーターへの変更)
・そして、財源の確保
ということだったようです。ただ、このしみだし過ぎないというルールはその後もあまり守られず、ル・パリジャン(ル・モンドなどの高級紙と比べると大衆向けですが、名前の通りパリと近郊の情報が豊富な新聞)の昨夏(9月9日付)の記事では、パリ市の報告書を引用する形で、しみだしたいカフェ側ときっちり取り締まりたい市側の攻防を紹介しています。さらに、2017年にはテラス席設置にかかる税金が2%上がることが決まっているそうです。
Le Parisien 2016年9月9日付
《Paris : les terrasses des cafés dépassent les bornes》
たしかに、そこもう歩道ですらなく道路じゃない?というところまで出てきちゃってるテラス席、よく見かけますものね。。
ただ、カフェ側からしたら商売あがったりだ、と不満が募っており、更なる増税に溝は深まるばかり。
昨日(1月10日付)の同じくル・パリジャンには「Les terrasses croulent sous les taxes」 (「テラス席は税金の前に崩れ去る」という感じでしょうか…?フランス語ってむずかしい…)という見出しで、市は財源がほしいだけ、というカフェ側からの反論が紹介されていました。
Le Parisien 2017年1月10日付
《Paris : les terrasses croulent sous les taxes》
現に市内2万か所以上のテラス席から年間5000万ユーロ(60億円!?)に近い税収入を得ているそうなので(条例改正前の2010年度は3000万ユーロ)、それは手放したくないでしょうし、今回の更なる増税は、ルール順守のインセンティブになるという反面、もちろん税収入UPも喜ばしいに違いありません。
ちなみに、パリ市HPのシミュレーションでは、1m×1mのテラススペースは年間で€1500(20万円弱)近くかかるとのこと。加えて暖房機器や囲いも別途課税対象となっていて、結構お金がかかるんですね。
要はやりすぎはいけない、ということなんでしょうが、はて、この攻防どうなることやら、テラス席は逆風にめげず、今後とも歩道にしみだしつづけるのか、引き続き注目していきたいと思います。
屋根裏部屋ぐらし。パリの歴史を暮らす
Chambre de bonneといういわゆる屋根裏部屋に住んでいます。
これがなかなかに悪名高く、狭い・時にはエレベーターなし・水回りが貧弱、という三拍子そろって、学生の中でも敬遠されがち。
我が家も例外でなく、11㎡・7階(日本式8階)エレベーター無し・洗濯機なしというTHE屋根裏部屋!という物件で、遊びにくる友人からは驚愕されるのですが、
住んでみた感想としては、とても満足。
東京生活でどうしても成し遂げられなかったミニマリストな生活を実現できている(せざるをえない)ことも理由の一つですが、パリに生きた人々の人生を感じることができるという、得難い経験をしています。
そもそもこれらの屋根裏部屋は、19世紀半ば~のパリ改造によってできたオスマン様式のアパルトマン最上階のことを指します。(我が家も築105年です)
当時は階数が上がるほど水回りが貧弱になり、かといって1階は道路の騒音が気になる、ということで2階が一番いい階数だったそう。(景色がいい最上階が最高値という日本の今のマンション事情の常識は、常に当たり前だったわけではないわけです)
そして、条件の一番悪い最上階は、階下の部屋の家事手伝いの女中さんたちが住む部屋でした。多くの場合が10㎡前後の一間で、トイレ・シャワーは共同、通常の住民が使う赤絨毯がひかれた階段とは別の、狭い階段を使って上ります。物件によるでしょうが、我が家の場合は、同じフロアには15戸ほど同じような部屋が並んでいます。女中の需要がなくなった後は、移民や学生達が住むようになりました。
例えば1950年代には経済的な理由から、多くのスペイン人女性がパリに出稼ぎに来ていました。彼女たちが、まさに私が今住んでいる部屋に住んでいたかもしれない、わけです。
出稼ぎや移民の出身国は年代によって波があるので、1950年代のスペイン人以外にも、100年前にはフランスの地方からでてきたうら若き乙女だったかもしれないし、ポーランド人やアルメニア人、イタリア人だったかもしれない。1960年代以降は南米からの移民も多かったそうですから、ペルー人だったかも、また最近ではアルジェリア人やモロッコ人だったかもしれません。
自由・平等・博愛を歌い上げながらも、フランス社会が平等でないのは誰の目にも明らか。最下層としてフランスの階級社会に飛び込んだ彼女たち彼らが、何を思い、何に涙し、何を楽しみ生きていたのか。夜な夜な論文を書き、同じ景色をみながらそんなことを思うとき、きらびやかなだけではないパリの歴史に織り込まれていくような、そんな気持ちになるのです。
*ただ、パリに10万件以上あるといれるこの屋根裏部屋、長年衛生上の観点から問題視されており、そこに近年の住宅不足も相まって、パリ市は2020年までに全戸の撤廃(ロフトとしてリノベーションを推奨、現に向かいの家はリノベーション済)を目指すという方針だそう。
個人的には、(最下層の人向けの住居という)セーフティネットの役割を果たしていると感じているので、そのあたりに関してはどういう対策が別途とられるのか、気になるところです。
*「パリの日本人」(鹿島茂著、新潮選書)の中で、東久邇稔彦がパリ留学を振り返った手記が紹介されています。東久邇稔彦の渡仏は1920年から7年間だそうなので、90年前の宮様、そして後の首相が同じものをみていたのかと思うと、ちょっとした感動を覚えます。
「普通の家でも使用人と主人とは出入口が違ふ。主人は表玄関から出入りするけれども、使用人は横か裏の小さな出入口を使ふことになつてゐた。住むのも同じ家に住まずに屋根裏へ住んでゐる。私が日本で考えてゐたやうな民主的フランスではなく、あまりに階級的な差がひどいので、ちょつと異様に感じた位であつた。」(「パリの日本人」、103ページ)
「祖国」の味。パリのセルビア人街。
人生で初めて セルビア料理を食べました。
肉々しくて、でも奥深い味わいもちゃんとあって、おいしかった。
連れていってくれたセルビア人クラスメート曰く、
彼らのアイデンティティは「西(ヨーロッパ)でもなく、東(トルコ・イスラム)でもない、その中間」というところにあるのだそうですが、
料理もまさにそんな感じで、ギリシャや中東料理にもあるという前菜から始まり、メイン(基本的にはひたすら肉!)も、いわゆる洋食的な雰囲気にトルコ風なスパイスが効いていて、周辺の美味しいものがみんなバルカン半島に集まった!ような豊かな食文化が感じられました。
一緒に行ったチェコ人の友人が、「これは知っている!」もしくは「これはチェコ料理が由来だと思うのよね」というコメントを連発していて、ヨーロッパの食文化がお互いに影響し合ってきた、そんな歴史もかいま見ることができました。
場所は、決して治安がいいとはいえない18区の、その中でも北の方、メトロ4番線Simplon駅から歩いて数分。
Simplon通りという、セルビア人街(通り?)に位置しているのですが、通り沿いにはセルビア系床屋、セルビア食品店、そしてセルビア正教会の教会まで揃う充実っぷり。
パリには中華街(複数)やユダヤ人街、ベトナム人街、日本料理・韓国料理が集まるOpera周辺等、移民たちのコミュニティがたくさんあるとはいえ、セルビア人街もあることは驚きでした。
というのも、セルビアは北海道程の大きさがあるものの、人口は712万人と東京23区より少なく、その人口でセルビア人街をつくるほどにパリでのコミュニティが発達していることに、彼らの激動の歴史を思わずにはいられません(もちろん移民が多いから絶対にコミュニティをつくるとはいえないので、一概には言えませんが)
ただ、お店の名前は「Zavicaj au Pays Natal」。
セルビア語の「Zavičaj」、フランス語の「Pays Natal」はどちらも「祖国」という意味です。パリのセルビア人たちはここで「祖国」の味を通して、故郷を想うんだ、とそんなことを思いました。
ちなみに、ネットで調べる限り東京にはセルビア料理レストランはないようで、同じ旧ユーゴの国々の料理もあまり聞いてことがありません。世界の料理はフランス料理や中華料理、インド料理だけじゃないんだぞーと声を大にして言いたい気持ちです。
*前職の先輩に餞別でもらったパリにある「異邦人たち」のレストランの本。セルビア料理は載っていないけれど、パリの違った(でも、より現実に即した)側面がみられてオススメです。
※セルビア・・・面積77,474平方キロメートル、人口712万人(2011年時点)
東京23区・・・面積627平方キロメートル/人口926万人(2016年時点)
出典:外務省 セルビア共和国基礎データ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/serbia/data.html
東京都 都市区市町村マップ http://www.metro.tokyo.jp/PROFILE/map_to.htm
バゲットを小脇に抱えて
なんてことは絶対にするもんか、と思っていました。
皆がやっていることは、やらない。ミーハーなことからは1歩どころか10歩距離を置く、ことをモットーとしているあまのじゃく人間としては、そんなパリジェンヌを気取るなんてことは断固としてするまい、米を食べるんだ、しかも、バゲット持って歩くなんて、サトウのごはんを脇に抱えて歩いているのと同じじゃないか、おしゃれでもなんでもないじゃないか、と。
が、
4カ月のパリ生活を経て、
バゲットはコストパフォーマンスが良い、
という結論に至りました。
野菜は安い、調味料も安い。
でも、時々頻繁に、料理をしたくない時もある。
じゃあ、外食をしようと思うと、ランチですら最低1000円は覚悟しなくてはいけない。もちろん日本のオフィス街だって同じようなものだけど、選択肢としてワンコインランチは存在する。が、こちらにはない。
(ということで人々はどうしているかというと、お昼だと、学生は学食のサンドイッチを食べるか、林檎を齧るか、パスタをお弁当にして持ってくるか、ということをしています。会社員は福利厚生の一環として会社からランチ補助券が出るので、それで外食をしているようです。)
そこででてくるのがバゲット。そのまま食べられるので楽だし、何より安い。
だいたい1ユーロ前後で、そしてどれもこれも基本的に美味しい。個人的にはスーパーで売っている0.8ユーロのバゲットもいけてる。腹持ちはあまりしないけれど、食べた感はとてもあるので、一緒に生ハムを買って食べれば充分だったり。
パリの留学生はバゲット齧ってる、と聞いたときは嘘だ!と思ったけれど、あながち間違っていないなあと思います。
ということで、小脇にバゲット挟んでいます。
そして、不思議なことに、どんなに授業で悔しい思いをしても、テストの点数が低くても、エッフェル塔を横目にバゲットを持って歩いていると、ああ、なんか素敵だなって自己評価も上がったりしちゃって。
ミーハーも悪くない、そんなことを思う今日この頃です。
一学期目を終えて。価値観をこねなおす
今は長―い冬休みの真っ只中です。
奨学金をもらっていない身としては、学費を返せ!と叫びたくなる学期の短さとお休みの長さですね。
とはいえ、一学期目を終えた感覚としては、短くはなかったな(どっちじゃい)と。というのも、人との出会いも含め、多くの気付きがあった濃い4カ月間で、特に、自分の価値観を0から向き合いなおす必要性に迫られたことは何よりも得難い機会だったと思います。
20代後半にして仕事を辞めて日本を出た大きな理由のひとつは、自分の価値観がどんどん狭く偏屈になっていくのが怖かったから。そして、新しい考え方や価値観に柔軟でありつづけるためには、なるべく早めに、できるだけ大きな衝撃を受けておくのが一番てっとり早いのでは、と思ったからでした。
結果的には、やっぱり出て来てよかった、と思います。授業うんぬんの前に彼らがその前提としている価値観や物事の捉え方を自分が共有していない、という壁にぶつかりました。
どちらの考え方がいいという話ではなく、そもそもそんな前提から違うとは思っていなかった、というのが問題でした。十代のほとんどを日本の外(中華圏)で過ごしたため、自分は「国際的な視野」をもっている(けれど、それがどんどん狭まって怖い)と思って生きてきたのですが、どうやらそうではないらしい。新しい価値観を学ぶどころか、そもそも自分の考えがどこに立っているのかがわからなくなってしまった。
何がどう違うかが最初はわからず、そしていまも言葉で説明するにはよくわかってはいないのですが、右か左かという次元ではなく、その軸がびみょうにずれている感覚に困惑する日々。
日本的な座標軸でいえば、自分はやや左寄りながらも比較的中立的な価値観を持っていると思って生きてきたのですが、本来その文脈的には共感するはずの「人権」や「人の自由な移動」も、彼らの口から説明をされると、いちいち、それは違うやろ、とツッコミたくなる。(でも基礎知識がおいついていなから、実際にツッコミをいれるほどの勇気はなく、悶々とする、ということを繰り返していました)
その結果、それがどこに立っているかもわからないのに、ついつい自分のもとの価値観にしがみついてしまう。欧米への留学初期によくありがちな、西洋思想に内在されるキリスト教的な普遍主義に対する条件反射的な反発、だといってしまえばそれまでなんですが、そうそう簡単に片づけてしまうとこぼれ落ちるものが多すぎるきがします。
反発して乱暴に投げ捨てるのではなく(それだと日本にいたときと変わらない)、その違いをきちんと理解をして、呑み込んで、自分の価値観とねり交ぜて、変わっていきたいな、と。
歳をとるにつれ、変わることがどんどん難しくなっていく、ものだと思います。
自分の頑固さに気が付いたときは、前職の秘書室新人時代にこねていた朱肉を頭に思い浮かべるようにしています。
担当していた役員は、印鑑をおすときの朱肉が、いわゆる普通の朱肉ではなく、印泥(中国産の練り朱肉)でした。これって、しばらくほっておくと、めちゃくちゃ固くなる。だから使うときには、ヘラをつかって、練り直さなくちゃいけない。
はじめはものすごく固いのだけど、しばらくねるねるしていると、どんどん柔らかくなって、まろやかにつややかになってくる。
今回の留学を、自分の固くなった価値観をねりなおして、こねなおして、どんな相手に対しても柔軟に、どんな変化も新しいチャレンジもやわらかに乗り越えていける機会にしたいと思います。
今は何が何やらわからなくて、ひっちゃかめっちゃかですが、でも、半年後くらいには、そもそもとして、まずは自分の座標軸を定め直して、もうちょっと客観視できるところに着地したいなあ。できるかなあ。(そして、できればこういうこと10代のうちにやっときたかったなあ。苦笑)
そして、このブログでそういった価値観の違いなんかも紹介できるようにしていきたい、と思っています。
果たしてフランス語は話せるようになるのか
渡仏時点でのフランス語能力はゼロです。
あえて何も勉強してこなかった、といったらカッコいいですが、退職・引っ越し・習い事の試験の準備で、まあ、そんな余裕はなかった、が正しいです。
ちなみに、最初に覚えたフランス語(Bonjourなどの旅行ワード以外)は「Merde!(メルド)」。こちらで言う「クソッ!」という悪態です。フランス在住経験のある大好きな元同僚から教えてもらいました。この言葉に関しては、発音もばっちりです。
次は「Chiot(シヨ)」。子犬という意味だそうです。近所のスーパーで「Sol」と書いた瓶をこれは「Solt(塩)か?」と店のおじさまに尋ねたら、そうだ、スペルほとんどそのまんまじゃねえか、と言われ、ちなみにsolはお前の言葉ではなんて言うんだって聞くものだから「シオ」だと答えたら、それはフランス語では「子犬って意味だ」という経緯で学びました。人生で使う機会があるかはなはだ謎ですが、たぶん一生忘れないでしょう。
こんな調子なので、2年間でどこまでフランス語を話せるようになるのかと心配をしていたのですが、そんなのんびりとした心配は無用でした。フランス語の授業がスパルタなのです。すべての授業が英語で履修できるとはいえ、留学生は語学の授業でフランス語を履修することが奨励されています。私は全くの初心者なので、EUのレベルでいうA1レベルでアーベーセーデーから始めようと思っていたら、A1レベルを侮ることなかれ、授業はすべてフランス語で行われ、1カ月目にして4分間のスピーチが課されたくらいです。
これは気持ちさえ強く持っていれば、ある程度は話せるようになるのかもと期待させるスピード感です。これは、フランス流なのか、グランゼコールなんだからこれくらいついてきなさいよ、ということなのか。。三十路近い私はヘトヘトですが、どうにか先日その4分間スピーチ(日本舞踊と名取制度について、を非常に簡易な言葉で説明しました、でも原稿は見ずに話しました、我ながら頑張った)を終えました。中間テストは散々だったので、期末テストに向け勉強中です。
結論(?)としては、英語圏でない留学先は言語習得という意味でも大変にお勧めです。学校で習ったことをそのまま日常生活で反復練習できますし、それに、この国にいるんだから学んで当然でしょ、という素敵なプレッシャーがついてきます。早くニュースや映画が理解できるようになりたい、という前向きなモチベーションも日々湧いてきます。それに、将来的にも、もうひと言語プラスされるメリットはとても大きいと思います。