なぜかパリの空の下

国際関係の修士を取ろうと思い立ち、気が付いたらパリにいました。

屋根裏部屋ぐらし。パリの歴史を暮らす

Chambre de bonneといういわゆる屋根裏部屋に住んでいます。

 

これがなかなかに悪名高く、狭い・時にはエレベーターなし・水回りが貧弱、という三拍子そろって、学生の中でも敬遠されがち。

 

我が家も例外でなく、11㎡・7階(日本式8階)エレベーター無し・洗濯機なしというTHE屋根裏部屋!という物件で、遊びにくる友人からは驚愕されるのですが、

 

住んでみた感想としては、とても満足。

 

東京生活でどうしても成し遂げられなかったミニマリストな生活を実現できている(せざるをえない)ことも理由の一つですが、パリに生きた人々の人生を感じることができるという、得難い経験をしています。

 

そもそもこれらの屋根裏部屋は、19世紀半ば~のパリ改造によってできたオスマン様式のアパルトマン最上階のことを指します。(我が家も築105年です)

 

当時は階数が上がるほど水回りが貧弱になり、かといって1階は道路の騒音が気になる、ということで2階が一番いい階数だったそう。(景色がいい最上階が最高値という日本の今のマンション事情の常識は、常に当たり前だったわけではないわけです)

そして、条件の一番悪い最上階は、階下の部屋の家事手伝いの女中さんたちが住む部屋でした。多くの場合が10㎡前後の一間で、トイレ・シャワーは共同、通常の住民が使う赤絨毯がひかれた階段とは別の、狭い階段を使って上ります。物件によるでしょうが、我が家の場合は、同じフロアには15戸ほど同じような部屋が並んでいます。女中の需要がなくなった後は、移民や学生達が住むようになりました。

 

例えば1950年代には経済的な理由から、多くのスペイン人女性がパリに出稼ぎに来ていました。彼女たちが、まさに私が今住んでいる部屋に住んでいたかもしれない、わけです。

 

出稼ぎや移民の出身国は年代によって波があるので、1950年代のスペイン人以外にも、100年前にはフランスの地方からでてきたうら若き乙女だったかもしれないし、ポーランド人やアルメニア人、イタリア人だったかもしれない。1960年代以降は南米からの移民も多かったそうですから、ペルー人だったかも、また最近ではアルジェリア人やモロッコ人だったかもしれません。

 

自由・平等・博愛を歌い上げながらも、フランス社会が平等でないのは誰の目にも明らか。最下層としてフランスの階級社会に飛び込んだ彼女たち彼らが、何を思い、何に涙し、何を楽しみ生きていたのか。夜な夜な論文を書き、同じ景色をみながらそんなことを思うとき、きらびやかなだけではないパリの歴史に織り込まれていくような、そんな気持ちになるのです。

 

 

*ただ、パリに10万件以上あるといれるこの屋根裏部屋、長年衛生上の観点から問題視されており、そこに近年の住宅不足も相まって、パリ市は2020年までに全戸の撤廃(ロフトとしてリノベーションを推奨、現に向かいの家はリノベーション済)を目指すという方針だそう。

個人的には、(最下層の人向けの住居という)セーフティネットの役割を果たしていると感じているので、そのあたりに関してはどういう対策が別途とられるのか、気になるところです。

 

*「パリの日本人」(鹿島茂著、新潮選書)の中で、東久邇稔彦がパリ留学を振り返った手記が紹介されています。東久邇稔彦の渡仏は1920年から7年間だそうなので、90年前の宮様、そして後の首相が同じものをみていたのかと思うと、ちょっとした感動を覚えます。

「普通の家でも使用人と主人とは出入口が違ふ。主人は表玄関から出入りするけれども、使用人は横か裏の小さな出入口を使ふことになつてゐた。住むのも同じ家に住まずに屋根裏へ住んでゐる。私が日本で考えてゐたやうな民主的フランスではなく、あまりに階級的な差がひどいので、ちょつと異様に感じた位であつた。」(「パリの日本人」、103ページ)

 

新潮選書 パリの日本人

新潮選書 パリの日本人

 

 

「祖国」の味。パリのセルビア人街。

人生で初めて セルビア料理を食べました。

肉々しくて、でも奥深い味わいもちゃんとあって、おいしかった。

 

連れていってくれたセルビア人クラスメート曰く、

彼らのアイデンティティは「西(ヨーロッパ)でもなく、東(トルコ・イスラム)でもない、その中間」というところにあるのだそうですが、

料理もまさにそんな感じで、ギリシャや中東料理にもあるという前菜から始まり、メイン(基本的にはひたすら肉!)も、いわゆる洋食的な雰囲気にトルコ風なスパイスが効いていて、周辺の美味しいものがみんなバルカン半島に集まった!ような豊かな食文化が感じられました。

一緒に行ったチェコ人の友人が、「これは知っている!」もしくは「これはチェコ料理が由来だと思うのよね」というコメントを連発していて、ヨーロッパの食文化がお互いに影響し合ってきた、そんな歴史もかいま見ることができました。

 

場所は、決して治安がいいとはいえない18区の、その中でも北の方、メトロ4番線Simplon駅から歩いて数分。

Simplon通りという、セルビア人街(通り?)に位置しているのですが、通り沿いにはセルビア系床屋、セルビア食品店、そしてセルビア正教会の教会まで揃う充実っぷり。

 

パリには中華街(複数)やユダヤ人街、ベトナム人街、日本料理・韓国料理が集まるOpera周辺等、移民たちのコミュニティがたくさんあるとはいえ、セルビア人街もあることは驚きでした。

というのも、セルビアは北海道程の大きさがあるものの、人口は712万人と東京23区より少なく、その人口でセルビア人街をつくるほどにパリでのコミュニティが発達していることに、彼らの激動の歴史を思わずにはいられません(もちろん移民が多いから絶対にコミュニティをつくるとはいえないので、一概には言えませんが)

 

ただ、お店の名前は「Zavicaj au Pays Natal」。

セルビア語の「Zavičaj」、フランス語の「Pays Natal」はどちらも「祖国」という意味です。パリのセルビア人たちはここで「祖国」の味を通して、故郷を想うんだ、とそんなことを思いました。

 

ちなみに、ネットで調べる限り東京にはセルビア料理レストランはないようで、同じ旧ユーゴの国々の料理もあまり聞いてことがありません。世界の料理はフランス料理や中華料理、インド料理だけじゃないんだぞーと声を大にして言いたい気持ちです。

 

 

*前職の先輩に餞別でもらったパリにある「異邦人たち」のレストランの本。セルビア料理は載っていないけれど、パリの違った(でも、より現実に即した)側面がみられてオススメです。 

パリ、異邦人たちの味 (フィガロブックス)

パリ、異邦人たちの味 (フィガロブックス)

 

 

 ※セルビア・・・面積77,474平方キロメートル、人口712万人(2011年時点)

  東京23区・・・面積627平方キロメートル/人口926万人(2016年時点)

 

出典:外務省 セルビア共和国基礎データ    http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/serbia/data.html

東京都 都市区市町村マップ http://www.metro.tokyo.jp/PROFILE/map_to.htm

 

 

バゲットを小脇に抱えて

なんてことは絶対にするもんか、と思っていました。

皆がやっていることは、やらない。ミーハーなことからは1歩どころか10歩距離を置く、ことをモットーとしているあまのじゃく人間としては、そんなパリジェンヌを気取るなんてことは断固としてするまい、米を食べるんだ、しかも、バゲット持って歩くなんて、サトウのごはんを脇に抱えて歩いているのと同じじゃないか、おしゃれでもなんでもないじゃないか、と。

 

が、

 

4カ月のパリ生活を経て、

バゲットはコストパフォーマンスが良い、

という結論に至りました。

 

野菜は安い、調味料も安い。

でも、時々頻繁に、料理をしたくない時もある。

 

じゃあ、外食をしようと思うと、ランチですら最低1000円は覚悟しなくてはいけない。もちろん日本のオフィス街だって同じようなものだけど、選択肢としてワンコインランチは存在する。が、こちらにはない。

 

(ということで人々はどうしているかというと、お昼だと、学生は学食のサンドイッチを食べるか、林檎を齧るか、パスタをお弁当にして持ってくるか、ということをしています。会社員は福利厚生の一環として会社からランチ補助券が出るので、それで外食をしているようです。)

 

そこででてくるのがバゲット。そのまま食べられるので楽だし、何より安い。

 

だいたい1ユーロ前後で、そしてどれもこれも基本的に美味しい。個人的にはスーパーで売っている0.8ユーロのバゲットもいけてる。腹持ちはあまりしないけれど、食べた感はとてもあるので、一緒に生ハムを買って食べれば充分だったり。

 

パリの留学生はバゲット齧ってる、と聞いたときは嘘だ!と思ったけれど、あながち間違っていないなあと思います。

 

ということで、小脇にバゲット挟んでいます。

 

そして、不思議なことに、どんなに授業で悔しい思いをしても、テストの点数が低くても、エッフェル塔を横目にバゲットを持って歩いていると、ああ、なんか素敵だなって自己評価も上がったりしちゃって。

 

ミーハーも悪くない、そんなことを思う今日この頃です。

一学期目を終えて。価値観をこねなおす

今は長―い冬休みの真っ只中です。

 奨学金をもらっていない身としては、学費を返せ!と叫びたくなる学期の短さとお休みの長さですね。

 とはいえ、一学期目を終えた感覚としては、短くはなかったな(どっちじゃい)と。というのも、人との出会いも含め、多くの気付きがあった濃い4カ月間で、特に、自分の価値観を0から向き合いなおす必要性に迫られたことは何よりも得難い機会だったと思います。

 

20代後半にして仕事を辞めて日本を出た大きな理由のひとつは、自分の価値観がどんどん狭く偏屈になっていくのが怖かったから。そして、新しい考え方や価値観に柔軟でありつづけるためには、なるべく早めに、できるだけ大きな衝撃を受けておくのが一番てっとり早いのでは、と思ったからでした。

 

結果的には、やっぱり出て来てよかった、と思います。授業うんぬんの前に彼らがその前提としている価値観や物事の捉え方を自分が共有していない、という壁にぶつかりました。

 

どちらの考え方がいいという話ではなく、そもそもそんな前提から違うとは思っていなかった、というのが問題でした。十代のほとんどを日本の外(中華圏)で過ごしたため、自分は「国際的な視野」をもっている(けれど、それがどんどん狭まって怖い)と思って生きてきたのですが、どうやらそうではないらしい。新しい価値観を学ぶどころか、そもそも自分の考えがどこに立っているのかがわからなくなってしまった。

 

何がどう違うかが最初はわからず、そしていまも言葉で説明するにはよくわかってはいないのですが、右か左かという次元ではなく、その軸がびみょうにずれている感覚に困惑する日々。

 

日本的な座標軸でいえば、自分はやや左寄りながらも比較的中立的な価値観を持っていると思って生きてきたのですが、本来その文脈的には共感するはずの「人権」や「人の自由な移動」も、彼らの口から説明をされると、いちいち、それは違うやろ、とツッコミたくなる。(でも基礎知識がおいついていなから、実際にツッコミをいれるほどの勇気はなく、悶々とする、ということを繰り返していました)

 

その結果、それがどこに立っているかもわからないのに、ついつい自分のもとの価値観にしがみついてしまう。欧米への留学初期によくありがちな、西洋思想に内在されるキリスト教的な普遍主義に対する条件反射的な反発、だといってしまえばそれまでなんですが、そうそう簡単に片づけてしまうとこぼれ落ちるものが多すぎるきがします。

 

反発して乱暴に投げ捨てるのではなく(それだと日本にいたときと変わらない)、その違いをきちんと理解をして、呑み込んで、自分の価値観とねり交ぜて、変わっていきたいな、と。

 

歳をとるにつれ、変わることがどんどん難しくなっていく、ものだと思います。

 

自分の頑固さに気が付いたときは、前職の秘書室新人時代にこねていた朱肉を頭に思い浮かべるようにしています。

担当していた役員は、印鑑をおすときの朱肉が、いわゆる普通の朱肉ではなく、印泥(中国産の練り朱肉)でした。これって、しばらくほっておくと、めちゃくちゃ固くなる。だから使うときには、ヘラをつかって、練り直さなくちゃいけない。

はじめはものすごく固いのだけど、しばらくねるねるしていると、どんどん柔らかくなって、まろやかにつややかになってくる。

 

今回の留学を、自分の固くなった価値観をねりなおして、こねなおして、どんな相手に対しても柔軟に、どんな変化も新しいチャレンジもやわらかに乗り越えていける機会にしたいと思います。

 

今は何が何やらわからなくて、ひっちゃかめっちゃかですが、でも、半年後くらいには、そもそもとして、まずは自分の座標軸を定め直して、もうちょっと客観視できるところに着地したいなあ。できるかなあ。(そして、できればこういうこと10代のうちにやっときたかったなあ。苦笑)

 

そして、このブログでそういった価値観の違いなんかも紹介できるようにしていきたい、と思っています。

果たしてフランス語は話せるようになるのか

渡仏時点でのフランス語能力はゼロです。

 

あえて何も勉強してこなかった、といったらカッコいいですが、退職・引っ越し・習い事の試験の準備で、まあ、そんな余裕はなかった、が正しいです。

 

ちなみに、最初に覚えたフランス語(Bonjourなどの旅行ワード以外)は「Merde!(メルド)」。こちらで言う「クソッ!」という悪態です。フランス在住経験のある大好きな元同僚から教えてもらいました。この言葉に関しては、発音もばっちりです。

 

次は「Chiot(シヨ)」。子犬という意味だそうです。近所のスーパーで「Sol」と書いた瓶をこれは「Solt(塩)か?」と店のおじさまに尋ねたら、そうだ、スペルほとんどそのまんまじゃねえか、と言われ、ちなみにsolはお前の言葉ではなんて言うんだって聞くものだから「シオ」だと答えたら、それはフランス語では「子犬って意味だ」という経緯で学びました。人生で使う機会があるかはなはだ謎ですが、たぶん一生忘れないでしょう。

 

こんな調子なので、2年間でどこまでフランス語を話せるようになるのかと心配をしていたのですが、そんなのんびりとした心配は無用でした。フランス語の授業がスパルタなのです。すべての授業が英語で履修できるとはいえ、留学生は語学の授業でフランス語を履修することが奨励されています。私は全くの初心者なので、EUのレベルでいうA1レベルでアーベーセーデーから始めようと思っていたら、A1レベルを侮ることなかれ、授業はすべてフランス語で行われ、1カ月目にして4分間のスピーチが課されたくらいです。

 

これは気持ちさえ強く持っていれば、ある程度は話せるようになるのかもと期待させるスピード感です。これは、フランス流なのか、グランゼコールなんだからこれくらいついてきなさいよ、ということなのか。。三十路近い私はヘトヘトですが、どうにか先日その4分間スピーチ(日本舞踊と名取制度について、を非常に簡易な言葉で説明しました、でも原稿は見ずに話しました、我ながら頑張った)を終えました。中間テストは散々だったので、期末テストに向け勉強中です。

 

結論(?)としては、英語圏でない留学先は言語習得という意味でも大変にお勧めです。学校で習ったことをそのまま日常生活で反復練習できますし、それに、この国にいるんだから学んで当然でしょ、という素敵なプレッシャーがついてきます。早くニュースや映画が理解できるようになりたい、という前向きなモチベーションも日々湧いてきます。それに、将来的にも、もうひと言語プラスされるメリットはとても大きいと思います。

 

人生はタイミング

人生はタイミングだな、と思います。

とても素敵なことでも自分がそれを受け止める準備ができていなかったら、たぶんそれは心に響かなかったり、本当に美味しい食事でも、自分の体調や気分が優れなかったら美味しいとは感じられなかったり。

 

逆に、周りの人からのアドバイスが、パズルのピースがきれいにはまるように、胸にすとんと落ちるようなことがあったりする。

そんな経験は何度かあるのですが、進路を悩んでいる時にも一度ありました。

 

留学を考え始めたのは、入社3年目の夏。当時、比較的業務量の多い部署におり、会社と家の往復のような毎日を送っていました。会社も同僚も大好きだったのですが、本当にこれでよかったんだっけ、という問いが頭を擡げた出来事がありました。ただそれは単なる一つのきっかけであって、大きくみれば30歳を前にしてご多分に漏れずという感じかと思います。

ただ、これだけの奉仕(その時はお給料以上、役職で求められている以上の時間的・精神的なコミットメントをしていると思っていました、ちなみに、退職を決めて、それは間違っていたとやっと感じることができました)をするのであれば、本当にやりたいことにつながっていてほしい、登る山を間違えているのではないか、登るのであれば、正しい山を登りたい、と泣き出したいような焦りとともに感じていたことを覚えています。(本当にやりたかったこと、についてはまたいつか書きたいと思います。)

ただ、同時に、これは逃げなのかもしれない、という気持ちもありしばらくウジウジしていたのですが、年上の知り合いと食事をした際に「選択肢を手のうちに揃えると、クリアに考えることができるようになる」というアドバイスをもらいました。(ちなみに、地球の反対側、ウユニ塩湖で出会った女性です。彼女ともう一人一緒に出会った女性も芯の通った美しい女性で、こういう30代になりたいなと思わせてくれる存在です)

 

彼女の一言は、当時の私にはハッと目が覚めるような効果がありました。そこから、1)会社で働き続ける、2)転職をする、3)留学をするという3つの選択肢から、1年半後にどれも選べるように準備をして、すべての選択肢を手の内に揃えてから決断をしようと決めたのが3年目の夏。そして1年半後に留学という選択肢を選びました。

結論を決めずに1年半考える時間があったのは本当によかったなと振り返って思います。仕事を続けるかもしれないので、仕事も頑張ることができたし、今でも前職の会社も同僚も大好きです。(会社愛のコンテストがあれば結構な上位に食い込む自信があります。)自分のことのみを考え続けてもう気持ち悪いくらいの日々でしたが、それでもとことん考えたからこそ、今後何があってもこの決断を後悔することはないと思います。

よく言われるように自分のComfortゾーンから出て挑戦することはとても大切だと思います。まだ挑戦を始めたばかりですが、留学・退職の決断をしただけで、自分の人生観やマインドセットが大きく変わるのを感じました。自分がどれだけ甘えていきてきたか、会社にも家族にも寄りかかって生きてきたか、どれほど守られて生きてきたかということをいやというほど感じています。それはフランスにきてさらに強く感じる今日この頃です。これがわかっただけでも留学にきたかいがある、とさえ思います。(まあ、もう27歳なので、もっと早く気が付けよと自分にツッコミたいところですが、それでも、一生気が付かなかったよりか断然嬉しいです)

セルビア首相の講演会

日本は金木犀が香る頃でしょうか。

パリはぐんと寒さが増し、朝夕の冷え込みは冬すら感じさせます。道行く人々もコートを着込みはじめ、もっと寒くなったらこの人たちは何を着るのかしら、と不思議に思っているところです。

 

そういえば、今は、パリコレ期間中なんですね、キムカーダシアンが強盗にあったニュースを読んで初めて知りました。パリコレの欠片も感じないくらい、課題に埋もれて家と学校を往復する毎日を送っています。

 

この1カ月、日々の授業に関しても、自分自身に関しても多くの気づきがあったのですが、その中でも衝撃度の高かった出来事について、今日は少し。

 

先日はセルビアの首相の講演会を聞きに行ってきました。

 

(さすがグランゼコールというべきか、世界を動かす当事者たちのセミナーやイベントが盛り沢山で、時には同じ日時に興味があるイベントが被ることも。もう少し頑張って調整してよ、というツッコミは封印して、とても贅沢だなと思います。課題文献をほったらかして聞きに行きたいところですが、そうはいかないため、取捨選択をして、参加をしています)

 

セルビアの首相はアレクサンダル・ブチッチといい(ちなみに国家元首はニコリッチ大統領)、46歳で非常に若い首相です。そして背がとても高い(セルビア人クラスメート曰く、背が高かったり、体格がよかったりすることは、セルビアではとても重要な要素だそう)。

 

日本ではセルビアの首相が誰かなんて、おそらくほとんどの人は知らないでしょうし、彼に関してのWikipediaの日本語版はありません。私も、セルビア人のクラスメートからNATOのセルビア空爆についての経験談を聞いていなければ、おそらく参加をしていなかったでしょう。

ただ、私たちが知らないからといって、何かに劣るわけでは全くなく、政治家として、日本の政治家とは比べものにならない次元に身を置いているということを感じた講演会でした。

というのも、セルビアが今直面している課題は、コソボ独立問題、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナとの関係、EU加盟、安全保障(NATO/ロシアとの関係)と、国の大きさを考えると、状況によっては国の将来を劇的に変えてしまうような問題を同時並行で抱えており、且つ、コソボ紛争時のNATOによる空爆は1999年、まだつい最近のことです。質疑応答では、コソボ、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビアとバルカン半島の学生が並び、際どい質問を投げかけていました。

ある学生への返答の中でI do not want to hurt your family and I do not want you to hurt my kids(という趣旨のことを)答えていたのですが、この「hurt」は本当の意味での、身体的な意味での「hurt」だということが、平和に慣れ切った私には衝撃的でした。

質問をする方の学生たちにも、真剣という言葉ですらも生ぬるいような、緊迫感が漂っており、もちろん色々な安全保障上の課題や問題があるとはいえども「戦後」に生きる私たち日本人と違って、彼らにとって紛争を含めたこれらのことは全て「現在」の出来事だということ、当たり前ですが、強く感じた講演会でした。

もちろんセルビア国内では首相への賛否両論あるようですが、それでも、それを踏まえたとしても、デリケートな問題を抱える一国の首相が、学生に対して講演会を行い、質疑応答を設けるということは、それが例えイメージ戦略の一環であったとしても、日本的な感覚からすると驚くべきことでした。日本の政治家が同じ状況に置かれたら、果たして同じことができるのか、と思います。